
MARGEM
「無所属の時間」を隠し味として練り込んだような、建築や都市をつくれないか
子どもの頃、建物の中に入ることが嫌いだった。
今でも初めてのハコに1人で入るのは苦手だ。
中身の見えないお店や、自分と雰囲気の合わない空間に
立ち入る時に勇気がいることは、
多くの人が経験することだろう。
引っ込み思案だった私は、ハコに入った時、
自分の用事が決められてしまう、そんな気がしていた。
服屋に入れば自動的にショッピングの時間になる、と。
店員さんに「見てるだけ」と言えば済むのだが、
当時は少し気が引けた。
建物は、
私の時間の使い方を限定するハコだ、
そんな不自由な思い込みをこじらせていたのだ。
高校生の頃、大学で建築を学んでいた兄が、
課題でつくった大きな建物の模型を部屋に飾っていた。
何のための建物なのか分からないままに、
私ならこのスペースに居たいなぁと想像した。
名前や用途がなくたって
居心地のよい余白が、そこにあった。
子どもの心には、
公園も空き地も大差ないのである。
そんな面白さだけで建築設計の道に進んできたのだが、
一方で、建物は、クライアントが明確な目的のために
費用を投じて初めて実現するものだ。
その目的や収益を満足するために、大人の社会のために、
用途を定義しなくてはならない。
では、空き地は生産性のない場所だったのか?
現代の日本では、習い事をしている子どもが多い。
今や、習い事の掛け持ちだって珍しくない。
昔よりも多くの時間を、ある用事に限定させているのだ。
街も同じだ。
多くの建物が、多くの空間を、ある用事に限定させている。
近年、日本でキャンプに多くの人が魅力を感じているのは、
「所属」がひしめく社会や都市の不自由さから離れ、
「無所属の時間」を過ごせるから、であろう。
もし私が、公園を設計してほしいと依頼されたら、
遊具を設計あるいは選定・配置するのだが、
本当のところは、なるべく遊具を置かず、
偶然のような空き地を設計したい。
本来、ないところから遊びや知恵を生み出すことこそが
人類の力であり、
そこに、その場所にしかない五感を伴った文化が形成される。
その野生味が、生命の循環に不可欠だと思っている。
「無所属の時間」を隠し味として練り込んだような
建築や都市をつくれないかと、いつも考えている。
MASAHIRO OKADA


